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服部譲次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
服部 譲次
(はっとり じょうじ)
1940年10月20日、『大阪毎日新聞』に
掲載された服部の肖像写真
生誕 1893年11月8日
日本の旗 愛知県名古屋市
死没 没年不詳
国籍 日本の旗 日本
教育 東京帝国大学工科大学卒業
業績
専門分野 航空工学
勤務先 三菱造船
三菱重工業
受賞歴 ニッポン記念長尾航空技術奨励金
1940年
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服部 譲次(はっとり じょうじ、1893年明治26年〉11月8日 - 没年不詳)は、日本航空技術者三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所技術部部長、新三菱重工業専務取締役[1]などを歴任した。

来歴

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零式水上観測機

愛知県名古屋市にて育った[2]。愛知県立熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)、第八高等学校を経て[3]1918年東京帝国大学工科大学を卒業する[2]。大学卒業後は三菱造船に入社し、神戸造船所に配属される[2]

1920年に三菱造船の名古屋航空機製作所に入り、1921年にドイツに出張し、1924年に帰国[3]1923年より、名古屋航空機製作所にて設計課と研究課の課長に就任する[2]。その後、三菱造船は三菱重工業に衣替えする。三菱重工業の名古屋航空機製作所にて技術部の部長などを歴任した[2]。在任中は佐野栄太郎堀越二郎らを見出し、航空機の開発を推進した。零式水上観測機の開発に際しては佐野に設計主任を命じ、当時の三菱重工業には水上機の開発経験がほとんどないという状況下で佐野をバックアップし、最終的に制式採用にまで漕ぎ着けている。また、七試艦上戦闘機の開発では、まだ若手であった堀越を設計主任に抜擢した。続く九六式艦上戦闘機の開発でも堀越を設計主任に据え、逆ガル翼など独創的な設計を行う堀越をバックアップし、最終的に初めての日本独自設計の機体を完成させた。

1946年、名古屋機器製作所所長、1949年名古屋製作所所長に就任[4]

家族

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人物

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部下には深い信頼を寄せており、ニッポン記念長尾航空技術奨励金を授与された際には、二十数年に渡って携わった航空機開発に自らの功労はなく優秀な同僚や課員らのおかげだと語り、奨励金の栄誉は自らのものではなく設計課全体のものだとコメントしている[2]

賞歴

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  • 1940年 - ニッポン記念長尾航空技術奨励金。

脚注

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  1. ^ 『原子力年鑑』日本原子力産業会議、1957年、p279
  2. ^ a b c d e f 「研鑽に譽れあり――空の技術者五人――ニッポン記念長尾奬勵金受賞者」『大阪毎日新聞1940年10月20日
  3. ^ a b c d e f 『帝国大学出身名鑑』 校友調査会、1934年、服部譲次の項
  4. ^ 三菱重工業(株)『三菱重工業株式会社史』(1956.08)渋沢社史データペース
  5. ^ 京都―大津間敷設工事の研究 IIIびわ湖をめぐる鉄道歴史研究会、平成30(2018)年5月12日
  6. ^ 「期待なし」が巨大ビルへ、名古屋駅の大発展史 小川裕夫、東洋経済オンライン、2021/05/02
  7. ^ 珠玉の秘蔵資料特別公開第5弾:「明治期の鉄道資料」鉄道博物館、2022年10月16日
  8. ^ a b 櫻井錠二『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

関連項目

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